個性のこと

私が思う生きやすくなる方法

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生まれたての赤ちゃんは無条件に優しい気持ちになれても、人が成長し、言葉を発し、行動するようになると、多かれ少なかれ「なんで?」「どうして?」と言い(聞き)たくなる。

この疑問符のつくフレーズは、(1)興味関心からくるものと、(2)理解できないから出るものの二通りがあると思っています。

日々の暮らしの中で生きづらいと感じることが多かった私は、様々な経験を通して自分なりに出した答えがいろいろとあり。

そんな経験から、今回は「(2)理解できないから出るもの」について、少し綴ってみようかと思います。

模索した時期

人づきあいがとにかく苦手と思い続けて早半世紀。

みんなの中心になり、いつも機嫌よくニコニコ笑う人気のある人を、羨ましいと思っていた時期がありました。

だからそういう人になりたい、と、真似をしてみたり、目立つ行動をしてみたり、少しでも“できる人”になろうと努力をしてみたり、本当にいろいろとやってきました。

でも他人の評価に合わせてみても、Aさんからは高評価でもBさんからは関心も持たれないという虚しさを通し、どうしたらもっと自分らしく生きられるかを模索し始めました。

抜け出したくても抜け出せない時期

占いやタイプ別診断、様々な客観的私の解説を読み、これが自分か?と本来の自分(らしい)というものを知ってみても、自分の意識とは一致しない。だから心底納得はできない。

本来の自分というのは一体何なのか。

それを知りたくても、「どうしたらわかるのかがわからない」というときは、辛い、苦しい時期でした。

「どうしたらわかるの?誰か教えて。」

空を仰いで涙しては、いろいろ読み、考え、心と身体が分離したような感覚で生きていた。そんな時期がずいぶん長かったな、と思います。

辛くて耐えられないほどの試練

「できることなら死んでしまいたい」

半世紀の人生で、少なくとも2回、そう思ったことがあります。

それはどちらも、人間関係が修復できない、未来が閉ざされた、どっちを向いて生きていったらいいかわからない、などという、人生に絶望を感じたとき。

でも死ぬほどの勇気も気力もなく、死んでしまうことで娘たちに悲しい思いをさせてしまうかもしれない、という理由で結局生きることを選びました。

でもその時はそう思っていましたが、今思えば、ちゃんと自分の寿命を生きているわけで、それがいつ終わる寿命かはわかる由もありませんが、死ななかったということは、なにか生き続けるための使命があるんだと、そんな風に思考を切り替えたことで、また時間が動き始めました。

天分を知って納得した

そんな時期の個性学との出逢いが、私の生きやすさを大きく舵取りするきっかけとなりました。

生まれた日から割り出した私自身の性質を知ってみて、

人づきあいが苦手なのも、組織に属することが苦手なのも、自由でいたいのも、直感で生きたいのも、無理難題に果敢に取り組んでみたいのも、新しいハードルがあればあるほどエネルギーが湧いてくるのも、世界中がよりよく平和な場所になって欲しいことも、全部全部、「そんな自分でいいんだ」とそう納得することのできた初めての経験でした。

ダメと思っていたことが、ダメも良いもなく、“ただそうである、というだけのこと”なんだと思えたこと。

自分で努力して得ていくものもあるけれど、生まれたときから持っている、誰かと比べるとかそんな次元の話ではない、はなっから自分に備わる「自分という性質」というものがあるんだと気づいたこと。

だからそこをとにかく素直になって、知って、その通りに行動して、自分の心と一致させてみようと決めて生き始めてみたら、「こんなに生きやすいことってあるんだ」、としみじみと感じるようになりました

生きやすさは相手を認めることが肝

全ての人それぞれが、私のような唯一の個別の性質を持ち、唯一であるがゆえ、“みんなそれぞれ違うんだ”という意識を常に持って接するようにしてみたことで、

「理解できないからわからない。なんで?どうしてそんなこと言うの?どうしてそんなことするの?」とよく詰め寄っていた私は、自分と相手との違いを認めたり受け容れたりするという考えがなかったんだな、と気づき始めました。

人は“わからない”と感じると同時に”不安感“を抱くのだと思います。

とても小さなものかもしれませんが、それは自分を守る本能がはたらく不安感。その不安感が強い人ほど、自分以外の人や社会環境などに憤ったり不満をぶつけるのではないかと、私はそんなひとつの答えにたどり着いた気がします。

人はつい相手を威嚇するような声、言葉、口調でなじる行動をとってしまう。それは自分が安心したいがために、自分優位な環境を整備するために生まれる「“対立”の正体なのでは」と、そんな結論に至りました。

共生共存の世界をつくるには

じゃあその対立をなくし、共生共存の世界をつくるには。

それは自然界の動植物がすでに行っているような、それぞれがありのままで、他の存在をそのありのままで認め受け容れる器を持つこと。

そして自分を認め、相手を認め、自分も相手も認め合うという価値観を互いに持つことが、共生共存というもっとも自然で根本的な生きやすさなのでは、と思っています。

この記事を書いた人
有賀 理香
生きかたアナリスト。他人を認め自分を認め、生き辛い社会から生きやすい社会への気づきのきっかけを提唱している。
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