自分の人生、自分を生きる。
このあたりまえのことが、なぜかできないことで生きづらさを感じている人がとても多いと感じます。
私もそんな一人でした。
今でも100%自分を生きられているか、というと、そうではないかもしれません。でも少なくとも今は、昨日より今日、そして今日より明日は、自分らしく、自分を生きていると思える自信があります。
自分を生きるって、どういうことでしょう?
自分らしさって、なんでしょう?
人は生まれながらにして、みな個性を持って生まれてきています。
生まれたばかりの赤ちゃんは、言葉を話しませんし、自分でできることはほとんどありません。
でも、この地球に生まれてくる前に、この地球に生まれたら、こんなことをしたい、あんなことをしたい、と決めて生まれてくるそうです。
とういことは、私たちは、人生のスタート地点では「自分を生きる」ことしか知らない、心はとても純粋なワクワクに満たされているはず、なんですよね。
だけど人間というのは社会を形成し暮らしを営むという性質があるので、集団の中で生活をしている内に、さまざまな環境が影響して、知らず知らず自分がよくわからなくなってくる。
生まれた時にはわかっていたはずの、なにが好きで、なにをやりたくて、なにに本当の幸せを感じるか、ということがわからなくなり、義務や責任などという他人の思いを汲んだ人生を生きる羽目になっていたりする。
本当の自分てなんだっけ?
本当の自分はなにが喜びなんだっけ?
思い出してみましょう。
生まれた時にはわかっていた、本当の自分。
自分を知るために、自分以外の他人を知ってみる、というのは一つの手段になります。
自分というのは自分ではよくわからない、から、他人と自分を比較する、他人を通して自分がどんな人かということを感じさせてもらう。
そのために、他人に関心をもって他人をよく知ってみると、その分自分に還ってきて自分のことがよくわかる、という結果がついてきます。
すると、「他人は自分とは違う」といういうことがよくわかり、自分を彫り上げていくように輪郭がハッキリと感じられるようになってきます。
これは実はとても大切なことだと私は思っています。
他人と自分の線引きを自分でちゃんと決められるということは、自分の人生を自分らしく生きるために、自分の環境を確認できる、自分と他人との間に境界線を見つけられる、大切な作業だと私は思います。
よくありがちな、夫婦や親子のような近しい関係において、個性や個人というプライベートゾーンを超えてしまうことで生まれる、価値観の押し付けという現象があります。
これはもっとも自分らしく生きることを邪魔してしまう、厄介な現象だと思います。
どれだけ仲が良くても、どれだけ血縁が濃くても、「自分と相手は違うとしっかり認める」ということを意識するのはとても大切な要素です。
これが備わった目で相手を見、聴き、想い、言葉を交わす日々を習慣にすると、お互いに自分という存在を認められ、大切に扱ってもらっていることを感じ、それと同じ循環が人と人との間で自然に起こってくるのです。
人は自分を認められたい。
だったら、相手を認めるのです。
それは喜びであり、幸せと平和を創り出し、創り続けることになるのです。